たいへいざん あさひまた
秋田市仁別
最終更新:2025/01/20
- 来訪:文化9年(1812)月
- 年齢:59歳
- 書名:月のおろちね
- 形式:日記、図絵
- 詠歌:取付けてうら見る路の眞葛かな
江戸時代後期に秋田を旅した紀行家・菅江真澄は太平山の山頂で一夜を明かして下山した。
それに倣って(疲れたので)一泊したいところであるが宿泊の予約は入れてないし明日以降も仕事なので30分程休んで下山に臨んだ。
剣岳登攀で使い果たした体力の低下が危ぶまれる。
ああ、体中が痛え。
旭叉コースは最も利用されている登山経路で初心者向けでもあるコース。
標柱『菅江真澄の道』がある御手洗神社までは足場も悪く急な登りが続くが以降の経路は緩やかになるのである程度は体力を維持しながら下山もできよう。
野田口のような鎖場や急勾配はないので落ち着いて山を下りるべし。
三吉の話など織り交ぜながら日記に記す。
三吉鬼のエピソードについてはこちらを参照のこと。
と手を入れると、手首も凍るほどの冷たさだった。また山中に木隠れの池があり、それも『みたらし』というとの事である。
詠歌:掬ぶ(むすぶ)手も氷るおもひにあな涼し 清きが上への浄き真清水〈那珂通博のよめる〉
《月のおろちね》
文化九年(一八一二)七月二十日 下山の途中、この地で休息する 《月のおろちね》
同行した那珂道博の和歌
掬ぶ(むすぶ)手も氷るおもひにあな涼し 清きが上への浄き真清水
平成二年八月 秋田市連合青年会 秋田市サークル連合協議会
菅江真澄が絵に描き標柱『菅江真澄の道』が建立される御手洗の池はちょうど太平山の中腹あたりだろうか。
標柱に柄杓が下げられているが、太平山全体を三吉を祀る霊山とするならこの池は手水舎の役目を果たしているのだろう。飲料は遠慮しておいた。
あ
雨風が激しくなった。
山の神沢というところを登ると、まさしく大山祇の社がある。
《月のおろちね》
休憩スペースがある。
神前の鳥居に木の枝をびっしりと投げかけてある。
また、大きなろくろ木を三尺ばかりに切り斧で皮を削り、社のそばに押し立ててある。これらは『逆木』と呼ばれていた。これもまた山賤(山仕事をする人々)たちの風習なのであろう。
《月のおろちね》
神前の鳥居に木の枝をびっしりと投げかけてある。
また、大きなろくろ木を三尺ばかりに切り斧で皮を削り、社のそばに押し立ててある。これらは『逆木』と呼ばれていた。
これもまた山賤(山仕事をする人々)たちの風習なのであろう。
《月のおろちね》
●旭又登山口駐車場
●仁別国民の森
あ
●真澄図絵
●大平山遠景(一の鳥居)
川瀬に下りて、重い草鞋を脱ぎ泥まみれの脚絆を洗って、嵯峨氏の家に着いた。
道中のみやげ話をしながら、ようやく人心地がついたと言って笑い合い寒食の行い(修行)も終わったな、などと冗談を言ってまた笑い合った。
こうして食事を終えて夜も更けて床に臥した。
《月のおろちね》
川瀬
◆【番外編】《雪のおろちね》
大平山登頂を果たした真澄翁だが、翌年の冬にまた登って景観を描いている。
なおこちらの≪雪のおろちね≫はほぼ文章はなく図絵のみとなっている。
- 降雪してからまた大平山に登り写生した。
というわけで大平山、制覇しました。
正直、ただの県内の標柱探しから始めた菅江真澄の足跡を追うのも山を登るに至るまでになるとは
思いもよりませんでしたが、しかし良い経験になりました。
取材登山に同行してくれた富沢さん、途中、疲弊してた自分を車で送ってくださった方に感謝の意を申し上げます。
ありがとうございました。
【水害による通行止め】
令和5年(2023)7月、秋田市で総雨量400mm超えの大水害が発生し、旭又登山口では道路が崩落しており現在通行止めです(令和7年現在)。
復旧までは何年もかかる見通し。
駐車場 | 案内板 | トイレ |
〇 (登山道入口) |
〇 | 〇 |
【近隣施設】
仁別森林博物館(仁別国民の森)
秋田市仁別字務沢国有林22林班
- 営業時間:9:00~15:30
- 料金:
内容説明
- 仁別
- 嵯峨勝珍旧宅跡
◆参考文献
- 大平山三吉神社HP
- 菅江真澄全集第四巻 日記Ⅳ/未来社
- 菅江真澄遊覧記第5巻/菅江真澄 内田武志・宮本常一訳
- 国立国会図書館デジタルコレクション
- 真澄紀行/菅江真澄資料センター
- 取材協力・富沢克次
取材日:2018/08/11
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