本堂城


ほんどうじょう

美郷町本堂城回字館間

 

最終更新:2025/06/10


MAP タテ
MAP ヨコ
  • 来訪:文政11年(1828)
  • 年齢:75歳
  • 書名:月の出羽路 仙北郡
  • 形式:地誌、図絵
【こがねの清水】

 

『こがねの清水 元本堂村』の項に本堂城の由来と蒭霊(人形道祖神)を記録、図絵に描いた。

 

《菅江真澄著・月の出羽路 仙北郡


見晴らしの良い城跡

 本堂城は、戦国・織豊期に現在の大仙市の一部と美郷町北部一帯を治めた本堂氏の居館とされる。


図絵検証
甲 乙 丙PHOTO

 

甲 乙 丙PHOTO

本堂城正門址
本堂城正門址
📍[コラム] 標柱表記データ

前:菅江真澄の道 本堂城

横:文政十一年(一八二八)

本堂城の由来を記録(月の出羽路仙北郡)

古城あり 本堂出羽守吉高朝臣 ここに遷して居城し旧跡

後:平成二年十一月


菅江真澄の道 本堂城


文政十一年(一八二八)本堂城の由来を記録(月の出羽路仙北郡)

古城あり 本堂出羽守吉高朝臣 ここに遷して居城し旧跡

平成二年十一月




 倒壊、倒れたまま祠の横に野晒しにされている。


人形道祖神
◆本堂のショウキ様
  • 形態:面、藁人形
  • 数:1体
  • 体長:約4m
  • 作り替え:毎年6月中旬

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本堂城

県指定史跡 本堂城跡

 

 本堂城は、戦国・織豊期に現在の大仙市の一部と美郷町北部一帯を治めた本堂氏の居館です。


 本堂氏は、陸奥国和賀郡(岩手県)を支配していた和賀氏の一族と考えられ、観応年間(1350~1352)にこの地方に進出し、和賀家から独立して本堂の姓を名乗るようになったといわれています。

本堂氏は、天文4年(1535)に山城の元本堂城(美郷町浪花)から平城の本堂城に移り、慶長7年(1602)に常陸国新治郡志筑(茨城県かすみがうら市)に国替となるまで本拠としました。 


 本堂城は内館を囲む内堀と土塁、外館を囲む外堀などから構成され、内館の北東部分には高さ約4mの土塁の一部が残っています。


 これまでの発掘調査により、内館の規模は、内堀部分を含めると、

東西約170m、

南北約190m。

中心部からは主殿と考えられる建物跡がみつかっています。また、東から南側の水田下から、外堀の一部が確認され、当時の城域の一端が明らかになっています。


 中世の平常跡としては、東北地方でも数少ない保存状態の良い城館跡として評価されています。


美郷町教育委員会



県指定史跡 本堂城跡(説明板より)

 本道場は、戦国・織豊期に現在の大仙市の一部と美郷町北部一帯を治めた本堂氏の居館です。
 本堂氏は、陸奥国和賀郡(岩手県)を支配していた和賀氏の一族と考えられ、 観応年間(1350~1352)にこの地方に進出し、和賀家から独立して本堂の姓を名乗るようになった といわれています。
本堂氏は、天文4年(1535)に山城の元本堂城(美郷町浪花)から平城の本堂城に 移り、慶長7年(1602)に常陸国新治郡志筑(茨城県かすみがうら市)に国替となるまで本拠としました。
 
 本堂城は内館を囲む内堀と土塁、外館を囲む外堀などから構成され、内館の北東部分には高さ約4mの 土塁の一部が残っています。
 これまでの発掘調査により、内館の規模は内堀部分を含めると、
東西約170m
南北約190m
中心部からは主殿と考えられる建物跡がみつかっている。
 
 また、東から南側の水田下から外堀の 一部が確認され、当時の城域の一端が明らかになっています。
中世の平常跡としては、東北地方でも数少ない保存状態の良い城館跡として評価されています。


アクセス
駐車場 案内板 トイレ
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関連アーカイブ

でわwiki関連リンク

◆参考文献


取材日:2016/05/31

2023/04/18

【小松 和彦 (著), 宮原 葉月 (イラスト)】