
そうやきょう
秋田市河辺岩見岨谷
最終更新:2025/01/04

- 来訪:文化8年(1811)8月
- 年齢:58歳
- 書名:勝手の雄弓
- 形式:図絵
日記の中で岨谷峡を描いた図絵を残しており、ここから中山峠を越えて鵜養や殿渕、伏伸の滝、舟作などの景勝地へ向かった。《勝手の雄弓》

河辺町史によると、岨谷峡は和同年間(708-715)に鵜養の沼が破れたときにできたといわれている。巨岩絶壁が、川沿いに約300m屏風のごとく続き、直下を岩見川の清流が駆け下っており、四季折々の景色を楽しむことができる。
江戸時代の紀行家・菅江真澄は、日記「勝手の雄弓」に岨谷峡を描いた図絵を残しており、ここから中山峠を越えて鵜養や殿渕、伏伸の滝、舟作などの景勝地へ向かったことが知られている。
「勝手の雄弓」…菅江真澄が、文化8年(1811)に岩見三内を旅したときの日記。
岨谷峡は和同年間(708~715)に鵜養の沼が破れた時にできたとされる。

◆辺岨神社
◆辺岨神社 由緒
- 創建:昭和61年(1986)
- 標高:
- 祭祀:
- 宿泊:
- 別名:
創建:昭和61年
元々あった岩見神社を、『秋田の中心地=ヘソ』にあやかり河辺町の「辺」と岨谷峡の「岨」を当てて辺岨神社とした。
◆殿淵
説明文あたたたたたたた

殿渕は両岸に岩石が重なり、ツツジ、カエデなどが岩の間に繁茂し、澄んだ川面に映し出されるほか、イワナ、ヤマメなどの魚影も見ることができる。
名称の由来は諸説あり、河辺町史によると、昔、殿様がこの渕を遊覧した際に、誤って落馬したことから殿渕と名づけたと伝えられている。
また、秋田藩9代藩主佐竹義和公の紀行文「すなどりの記」によると、昔、2代藩主義隆公が、この地を訪れた時、金銀の銭を渕にまいて漁師たちを拾わせたことから殿渕と呼ばれるようになったとの記述がある。
「すなどりの記」…佐竹義和公が文化6年(1809)に岩見三内を訪れた時の紀行文。
名称の由来は諸説あり、
①昔、殿様がこの渕を遊覧した時に誤って落馬したことから。
②藩主佐竹義隆公が訪れた時、金銀の銭を渕にまいて漁師らに拾わせたことから。
鵜養の先、川と平行して遊歩道が続く。

◆伏伸の滝
説明文あたたたたたたた

河辺町史によると、昔は多岐つぼに鱒が多く集まり、農作業に使う「もっこ」を仕掛けて鱒を捕ったことから「もっこ滝」と呼ばれていた。その後、鱒があまりのぼらなくなり、古い名が忘れられ、いつからか伏伸の滝といわれるようになった。
江戸時代の紀行家・菅江真澄は、日記「勝手の雄弓」に伏伸の滝の図絵を残しており、このあたりが昔、湖であったという物語があり、鵜養という地名があることからも、鵜の洲(す)、鵜の巣などが訛ったものではないかとしている。
『ふのしの滝』と読む。
昔は滝つぼに鱒が多く集まり、農業用のモッコを仕掛け漁をしたことからモッコ滝と呼ばれた。
◆舟作
説明文あたたたたたたた

河辺町史によると、舟作の名称の由来は、川の流れにより掘って削られてできた岩盤の溝が、ちょうど舟の形をしていることからこの名がついたと伝えられている。
江戸時代の紀行家・菅江真澄は、日記「勝手の雄弓」に、舟作を描いた図絵を残しており、湖であった昔、小鮒などを漁していた場所で、鮒(ふな)雑魚(ざっこ)といわれていた名が今に残ったものであろうかと記しているが、現在は前述の由来が通説となっている。
名称の由来は、
①水流によって削られた岩盤の溝が舟の形をしていることから
②菅江真澄は日記《勝手の雄弓》に舟作の図絵を描き、湖であった昔、小鮒などを漁していた場所で、鮒雑魚(ふなザッコ)と呼ばれた変移であろうかと記す。
現在は前述の由来が通説となっている。
- 駐車場:あり
- 案内板:あり
- トイレ:あり
- 備考:遊漁券あり
- 中山峠
◆参考文献
- 河辺町史
- 国立国会図書館デジタルコレクション
- 各種説明板
取材日:2017/11/09
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