はたなかのにおうさま
仙北市西木町桧木内畑中
最終更新:2026/03/10
山の上の巨神
「人形道祖神」という文化は秋田の民俗風習を知る上で決して無視できぬ存在であり、またその特異な個性は民俗マニアならずとも人を惹き付ける魅力を持ち合わせている。
しかしその異形さ・アナーキーさゆえに予備知識なしで道端でハタと出会うと驚かれる向きも多かろうと思う。
だって見知らぬ集落を通過しようとするとケッタイな顔した等身大のワラ人形が道路脇に突っ立ってるんですよ?初見で二度見するなという方が無理なご相談であろう。
金田ブレーキも已む無し。
人形道祖神の多くは集落の出入口に立ててあるのが通例であり、それは集落に入る厄災を退けるための任を請けてくださっているからであるが、今記事にて取り扱う「畑中の仁王様」は集落のガードマンではなく村を見下ろす高台に鎮座ましましている。
彼はいったいどんなご尊顔をして、何を思って山の上に居られるのか?
その勇姿を追ってみる事にしよう。
CpT1.参拝
・はじまりは百年以上前と言い伝えられている。
・理由は、昔の人たちは疫病を極端に恐れて、恐怖のあまり、住民の息災と悪病の退散を願って建てられたようだ。
・胸札には「疫病退散」「家内安全」と書かれている。
・立てる時期は、旧暦4月8日前後の日曜日に各戸一人当の参集によって行われている。
・「仁王様」を作る材料は、ワラカヤ杉の長木が主である。
・「仁王様」の顔は、はじめ俵に書いて(目、鼻、口)いたが、風雨で流れてしまうので、地域の建具師佐市氏が大正12年(1923年)に木製の面を制作した。
この面も70数年の年月を経て変形したので、平成8年(1996年)に、田口宗之助氏・小田島安氏によって新しい木製の面が製作された(古い面は稲荷神社に保存されている)。地域住民は「お仁王様」と称してあがめ、本来の意味に、融和・親睦を加味しながら行事が進められている。
西木村教育委員会 平成14年5月5日
国道105号線と並走するように北に伸びた畑中地区のちょうど真ん中あたりに位置する辻にその丘がある。
十字路の角、自治会館の脇に説明板と入り口たる鳥居があるので発見は容易である。
駐車場はないのでどこか邪魔にならぬよう車両は停めねばならない。向かい側に空き家兼空き地があるのでそこに停めてもお咎めはないだろう(たぶん)。
すぐ真上に神様が見ておられるので路駐など不正は許されぬ。
会館の後ろ、鳥居を抜けると結構な勾配の細道に入る。階段は途中で無くなりつづら折りの山道になる。
小山とはいえ転がぬよう心して登る。
しばし蛇腹の道筋に足を運ばせると小山の頂上から巨大な藁人形がその体躯を覗かせているのが視界に入った。
彼の姿はまるで村全体を見渡すように文字通り仁王立ちしていた。
これが畑中の仁王様である。
なかなかケレン味のあるご登場だ。
体躯も大きい部類で、両手を大の字に広げてより大きさをアピール。
人形道祖神の象徴たる股の男根も朱く塗られ主張を強めている。少し細長い。
さまざまな角度から。
特徴的なのは両腕から筵(ムシロ)を着物の袖のように垂れかけてあるところだろう。他ではおよそ見られない造形だ。

正直、お面はかなりインパクトが強いデザインだ。
人形道祖神は村へ忍び寄る病魔や災厄を追い払う役目を持つ。このくらいのコワモテでなくば彼奴らも尻尾を巻いて逃げることもあるまい。
説明板によると、この面は平成8年(1996)頃から使用されている二代目で、初代の面は現在も保管されているそうだ。
どことなくなんとなく水木しげる御大漫画家、妖怪研究家、紙芝居作家。稀代の大妖怪の元締め。
が描いた妖怪『山爺』こんなやつ
に似ている気がする。
山道は急勾配だが、山頂の丘はけっこう広い面積があり、奥に稲荷神社の社殿が鎮座している。
おそらくここで催事や仁王様の作り替えが行われていたのでありましょう。
神野善治先生著の『人形道祖神 境界神の原像』によるとまさしく、仁王様の作り替えを終えた住民たちがここで筵を広げて重箱と酒を持ち寄って宴に興じた「直会(なおらい)」といいます。
ものだという。
仁王様が建っていた丘は「畑中館」と呼ばれる中世の城跡こういう山城跡は案内がないところでもけっこう散見される。
らしい。
歴史的背景を軽く調べてみたが主な年代や関連する氏族は不明との事。立地的に角館を主体に支配していた戸沢氏戸沢氏は西木一帯を支配しており、角館から西木町周辺にかけて城跡が複数見られる。
の居館のセンも考えられるが、詳細が分かったらまた追記したい。
遺構としては空堀らしき跡が見受けられる。
人形道祖神は元来、集落の出入口に立たされるのがセオリーであるが諸般の理由で寺社の境内や空き地に移転されているケースも少なくない。
城跡に建立されているタイプの人形道祖神といえば美郷町の本堂城のショウキ様
などが思い浮かぶ。
槍や刀で武装しているのも相まって城を鎮護する守備兵のような赴きがあり個人的には好きなシチュエーションだ。
主なき跡もなお城を護らんとするガーディアン…ラピュタのロボットみたいで格好良いではないか。
Cpt2.喪失と保存
2019年4月、再訪。
またあの勇姿を拝もうと現地へ足を運んだが、かの仁王様は忽然と姿を消していた。
あるのは稲荷神社の社殿と、仁王様の骨組みとおぼしき組み木が樹木に立て掛けてあるのみであった。
何たることか
予想外の事態にかなり当惑したが、人手・継承者の不足を理由に各地での民俗行事の消失が加速している現状を鑑みるにむべなる事かと思ったりした。
話によると、畑中地区では33戸あった民家も現在では26戸までに減少しているという。
秋田県各地の習俗の消滅は我々が考えている以上にそのスピードは速い。
兵どもが夢の跡。もどかしい気持ちを残し、この場を後にしたのであった。
2025年10月、行事としての仁王様は姿を消したが使用されていたお面は現在も保存されており見学が可能という情報を頂いたので三度畑中を訪問した。
訪れてみると山の麓、十字路の角にあった民家は解体、空き地となっていた。
もはや石を投げれば空き家に当たるような我が地方にあって更地の進行率の高さは驚くことでもなくなって来たが、やはり見知った光景が変わるという事に諸行無常を感じる。
跡地に残された庭の池の中で鯉たちがしずしずと泳いでいた。
1階は物置になっていた。
整理整頓ヨシ。
さてお目当てのブツは…
おお、いた。
向かって左にある年期の入ったものが先代の面であろう。
説明板によると、当初は体と同様に顔と目鼻口も全て藁で制作していたがすぐに風雨で剥がれてしまうので、大正12年(1923)に地域の建具師の人が木製の面を制作したとの事だった。
そして経年劣化を鑑みて平成8年(1996)に二代目の面(右側)が造られたという経緯のようだ。
初代面は丘の稲荷神社の中に保管されていたそうだが、この度日の目を見られる事となった。
何しろ初代面は100年以上前のヴィンテージ物なのでさすがに劣化は目立つが刻まれたスジが逆に年輪を感じさせてくれる。物静かな古老といった趣だ。
並べて見ると目の形や額の突起など面のデザインは両面とも踏襲しているのがわかる。
ところで仁王面の職人といえば、大仙市中仙地域に点在するオニョ様の面を制作した円満造氏が思い起こされるが、よもやこの仁王面を制作した人と技術交流があったりしないだろうか。
デザインコンセプト的に円満造氏の作と似通っている気もするが…はてさて。
近年、高齢・限界集落化、また、農業経営の変化により『人形建て』の存続が難しくなってきた事に伴い、今年9月、組頭が畑中部落の意向をとりまとめたところ『人形達て』を終了することになりました。
思えば昭和の時代、畑中には33軒の家がありましたが、令和2年現在26軒になっています。
令和2年10月18日 日曜日 午前8時から解体作業を始めると30分程で作業が終了しました。
仁王様のお面等については『畑中部落会館』に収めています。
※令和3年3月28日の畑中部落会館に神棚を設置し、仁王様を祀り各自いつでも自由に参できる事にしました。
2階へ上がると集会所になっており、壁に往時を偲ばせる写真が貼られていた。
昭和35年~平成8年あたりまでの様子を伝えている。初代の面はちゃんと目鼻口がペイントされていたのですね。
ひとまず人形の制作はなくなってしまったのは残念ですが、こうして行事の歴史を残してくださったのはありがたい事です。
次の世代にも語り継がれていきますように…
Cpt3.周辺を歩く
畑中地区の隣の高野地区にもかつては人形道祖神・ニオウ様が作られていたが、畑中のニオウ様が姿を消すよりもずいぶん前に作られなくなったという事であった。
高野にはニオウ様が建てられていた神社を含めて2つ神社がある。
せっかくなのでこちらも余さず参詣しておこう。
INFORMATION
取材日:2018/07/15、2019/04/10
2025/10/19






































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