
だいらさんきょう
山本郡藤里町藤琴
最終更新:2024/12/30

- 来訪:享和2年(1808)3月~月
- 年齢:49歳
- 書名:しげき山本
- 形式:日記、図絵
- 詠歌:花はいつ 桜の梢 松の葉も またゆふ凝の 霧のおくやま
【3月12日】
地元の宿屋や医者に誘われ、平(太良)山を目指す。を経て夕方に麓に着き宿を取る。《しげき山本》
あ
【3月13日】
太良鉱山内を見学。たたらで『ふいご』を吹く女の歌や坑口の様子を描く。
【3月15~18日】
箭櫃山(鉛山)へ向かう。山奥に春はまだ来ない。
【4月8日】
水無へ向かう。雪解けで増水した川を渡ろうと鉱夫らが手助けしてくれた。感動。
【6月1日】
避暑のため平山を登る。山の風情を満喫して夕暮れに下山。《しげき山本》

花はいつ 桜の梢 松の葉も
またゆふ凝の 霧のおくやま
白神山地 太良峡
ここは、藤琴川の上流、白神山地の一角で太良峡の中心的存在である。
碑の後方の台地は、かつては千人以上の人々が生活し繁栄した太良鉱山跡地である。
1958年、大洪水により閉山を余儀なくされたが、今は赤レンガの煙突が痛々しく残っている。
右側の赤色の橋は、太良峡のシンボルとして1960年に開通、橋の前方のこんもりとした高い山には、鉱山集落の「火の神」として祀った愛宕堂があった。
ここから逆上ること約三キロの地点から、太良溪谷の遊歩道が一コロにわたって整備され、その周りには樹齢二百年以上の天然秋田スギや、ブナ、ナラなどの広葉樹、大小の滝、渓谷では奇岩や白神山地の清流が満喫できる。
また、ここから4.6kmの地点から道路が分岐し、右側の白石沢からは青森県境のつるべ峠を越え弘前市に至る。
左側の黒石沢方面は、クルミ台野営場、岳岱自然観察教育林を経て駒ケ岳登山道に至り、白神の遺産に触れることができる。
左側に真澄の歌碑が建立されているが、真澄にはこの太良峡がどのように映えたのであろうか。
あ
太良鉱山
ここは、藤琴川の上流、白神山地の一角で太良峡の中心的存在である。
碑の後方の台地は、かつては千人以上の人々が生活し繁栄した太良鉱山跡地である。
慶長年間(1600年~)銀山として開山、のちに鉛山としても発展した。
文化14年(1817)に佐竹藩直営となる。
昭和38年(1958年)、大洪水により閉山を余儀なくされたが、今は赤レンガの煙突が痛々しく残っている。
赤色の橋は太良峡のシンボルとして昭和40(1960年)に開通、
橋の前方の こんもりとした高い山には、鉱山集落の「火の神」として祀った愛宕堂があった。

ここは、藤琴川の上流、白神山地の一角で太良峡の中心的存在である。
碑の後方の台地は、かつては千人以上の人々が生活し繁栄した太良鉱山跡地である。
慶長年間(1600年~)銀山として開山、のちに鉛山としても発展した。
文化14年(1817)に佐竹藩直営となる。
昭和38年(1958年)、大洪水により閉山を余儀なくされたが、今は赤レンガの煙突が痛々しく残っている。
赤色の橋は太良峡のシンボルとして昭和40(1960年)に開通、橋の前方のこんもりとした高い山には、鉱山集落の「火の神」として祀った愛宕堂があった。
- 駐車場:なし
- 案内板:なし
- トイレ:なし
- 湯の沢
- 水無沼
◆参考文献・サイト
- 菅江真澄大全集第三巻 日記Ⅲ/菅江真澄著 内田武志・宮本常一訳
- 菅江真澄遊覧記第4巻/菅江真澄 内田武志・宮本常一訳
- 国立国会図書館デジタルコレクション
- 秋田・消えた村の記録/佐藤晃之輔
- 藤里町郷土史愛好会/ナリタ様( @Fuji_kyoudoshi )
- 各種説明板
取材日:2017/06/14
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