寒風山 地震供養塔

寒風山 地震供養塔

じしんくようとう

男鹿市脇本富永字寒風山

 

最終更新:2024/12/23


追記 

  • 来訪:文化7年(1810)9月〜10月
  • 年齢:54歳
  • 書名:男鹿の寒風
  • 形式:日記

9月27日~10月初旬】27日は朝から天気が良く、今日のスケジュールを立てていたが、未のくだち(PM2:00過ぎ)、大きな地震が起こった。人々は阿鼻叫喚に狂い、家屋は倒壊し酒や鉢はおろか軒端の山も崩落する有様で命の危険を感じて竹林に逃れた。余震は2〜3日は続き、各地での死傷者は多いと聞いた。文化元年(1804)6月に鳥海山の噴火で埋もれた象潟の話を思い出す。10月に入ってもなお余震は続き、寒風山の麓に卒塔婆を建てて地震で亡くなった人の供養が行われた。男鹿の寒風
供養塔・内訳

  • 変死亡霊供養塔:文化7年9月25日発生。真澄も遭遇。
  • 饑亡五十回弔祭 追福之碑:天保4年の飢饉の餓死者供養。
  • 百回忌供養塔:同上(百回忌)。
  • 男鹿地震 追福之碑:昭和14年5月1日発生。
  • 昭和男鹿震災復興記念碑:昭和17年5月建立。

菅江真澄の道 地震供養塔 

 

 文化7年(1810)10月 、男鹿を襲った大地震の死者の霊を弔う。《男鹿の寒風》

寒風山の麓に卒塔婆を建て、地震で死んだ人たちの霊を祀る供養が行われている。

平成7年11月



ジオパーク 地震塚 

 

 男鹿半島を襲った地震の供養碑や復興記念碑、 冷害による飢饉の犠牲者の供養碑など、5基の石碑が並んでいます。

 最も古い石碑は文化7年(1810)に発生した地震の供養碑です。男鹿に滞在し、この地震に遭遇した菅江真澄は

「どこの村にも残っている建物はない程ほとんど倒壊してしまった。《男鹿の寒風》」

と、その惨状を記録しています。

 また、昭和14(1939)年の男鹿地震では、死者28名、被害家屋1,663棟という大きな被害が出ました。災害を風化させずに未来へ伝えていくためのメッセージを、 私たちに語りかけています。 


アコーディオン


菅江真澄の道 

あああ




  売店でなまはげソフトを頬張りながら遮蔽物ひとつない展望で景色を楽しみます。

道路は通じてますが、せっかくなので徒歩で散策するのもオツだと思います。

そんなに傾斜があるわけでもなし。


グライダー体験もできる場なので、頭上に注意。

『説明』

 追記

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見出し

追記

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アクセス
  • 駐車場:
  • 案内板:
  • トイレ:
  • 備考:

関連アーカイブ

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◆参考書籍


取材日:2016/06/07

【田口昌樹 (著)/無明舎出版】